コムファリレー

2018年5月 2日

8時間労働とメーデー

 本部のエスペランティストです。
 昨日はメーデーの集会でした。写真は集会の始まる前なので写っている人は少ないですが、この後身動きするのも面倒なくらい会場はいっぱいになりました。

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8時間労働はいつから
 今日も、過労死事案が後を絶ちませんが、それでも労働時間は8時間というのは法律で決まっていて、8時間を超えて労働させてはいけないことになっています。
 それはいつからのことなのでしょうか? 江戸時代から? そうではありませんね。資本主義社会になって、圧倒的多数の人たちが他人や会社に時間決めで雇われる(時間関係なしに雇われている性根の労働者は、奴隷・社畜などと呼ばれる)ようになってからです。


 資本主義が発展すれば発展するほど労働者(と失業者)が増えます。労働者は自立して自活する生産手段を持たず、雇われなければ飢え死にする境遇です。労働者には団結して声をそろえるくらいしか雇い主に対して対抗することができないですね
 このことは、憲法二十八条に、「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する」と定められています。


メーデーの始まり、8時間労働の要求
 さて、メーデーのきっかけをつくりだしたのは、アメリカの労働組合が、1日の労働時間を法律で八時間以内と制限することを要求して、1886年(明治19年)の5月1日におこなったゼネストです。
 当時の労働者は、どこの国でもたいていは12~14時間もの長時間にわたって働かされていました。
 アメリカの労働者は、すでにこのときまでに、8時間労働日を要求して請願行動を数十年も!つづけていましたが、しかし資本家はいっこうに受けつけず、らちがあきませんでした。
 組合がたたかいを呼びかけると、反響は絶大でした。1886年5月1日には、シカゴ、ニューヨーク、ボストンその他の1万1500以上の工場の労働者約35万人がストライキに突入し、18万5000人の労働者が、8時間労働日を獲得しましたし、その他20万人の労働者が労働時間の短縮をかちとったそうです。



 しかしただちに資本家側が反撃に移り、5月3日には、シカゴのエ場で警官が発砲してスト労働者を4人も殺し、さらに翌日シカゴのヘイ・マーケッ卜広場で開かれた労働者の抗議集会にたいしても弾圧がおこなわれ、8名の労働組合指導者が逮捕され、処刑されました。
 労働者が弾圧にひるむと、8時間労働日の約束はこのあとつぎつぎに反古(ほご)にされてったのです。

 

国際的なメーデーの取り組み

そこで1888年にアメリカの労働組合は、1890年の5月1日にふたたびゼネストでたたかうことをきめました。そしてこんどは、各国の労働運動にたいして同じ日に同じ要求でたたかうように積極的に呼びかけることにしました。

 


 さて、1890年の5月1日になると、アメリカでもイギリスでもフランスでも、またドイツ、オランダ、オーストリア、イタリア、スイスでも、またオーストラリアやペルーでも、幾十万労働者が、この決議にしたがってストライキをして、集会とデモ行進に参加しました。
 これが国際的なメーデーの最初のものでした。世界の労働者はその思想ではさまざまでありながら、この日はじめて一つの旗のもとに、一つの共通の要求をかかげて、共同のたたかいに立ちあがったのです。そしてこの国際的共同闘争は、このあと毎年つづけられることになり、
 5月1日は、まさしく全世界の労働者の国際的な示威の日、国際的な労働者の祭典の日になったのです。
 翌1891年の第二回国際メーデーは、八時間労働日の要求に、戦争反対・平和擁護の要求が結合して取り組まれました。

 

日本のメーデー
 わが国で労働組合が主催し、メーデーの行事がはじめて大衆的に、しかも屋外で堂々とひらかれたのは、それからさらに1920年(大正9年)5月2日のことでした(第一回メーデー)。
 この時期になると、明治時代とはちがって、わが国の資本主義も大きく発展して、労働者階級も労働組合運動も、着実な発展をとげていました。労働組合があつまって実行委員会をつくり、東京の上野公園で5000人の労働者をあつめてメーデー集会を開いたのち、神田錦町までデモ行進をしました。
 集会では、労働組合死刑法といわれた弾圧法規である治安警察法の撤廃、失業防止、最低賃金法の制定の三つの要求が決議され、さらに緊急動議として、八時間労働制、シベリア即時撤兵、公費教育の実現の三つの要求が提出されて、いずれも可決されました。



 翌1921年からは、メーデーは、毎年東京だけでなく、大阪、神戸、横浜、足尾などの地方でもおこなわれるようになり、これに参加する労働者の数も、年を追ってふえていきました。
 しかし労働者階級の力の増大を恐れた支配層は、これを黙って見すごしてはいませんでした。第一回メーデーに対して官憲はデモ行進にたいして弾圧を加え、数名の労働者を逮捕しましたが、第二回メーデー以後、こうした弾圧は毎回、それもますます狂暴なかたちでおこなわれるようになりました。
 したがって戦前は、メーデーに参加する労働者は、逮捕を覚悟のうえで、ゲートルを巻き、腰にべんとうと水筒と手ぬぐいをさげてでかけるというのが、常識になっていました。



 メーデーの集会と行進が、全国の主要都市で、数干、数万から数十万という真に大衆的な規模でおこなわれるようになったのは、いうまでもなく、軍国主義の支配がうちたおされた第二次大戦後のことです。

 

人類史的な成果としての8時間労働制
 今日、1日8時間、週40時間労働が当たり前ですが、この「当たり前」は少数の政治家の善意によって制定された制度ではなく、100年以上も前から、時には命がけで労働者が運動をしてきた成果なのですね。
 そしてそれは一国の運動ではなく、働く者が世界同時に連帯連携して運動を盛り上げてきた歴史的・人類的な成果といえるでしょう。

 

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