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事務局日誌

2018年9月25日

薬害根絶デー

本部のエスペランティストです。

8月23日・24日の両日東京での薬害根絶デー学習交流集会・厚労省前行動に参加してきました。
民医連に加盟する病院・診療所・薬局の職員も薬害をなくすため毎年被害者の方々とともに活動しています。
前夜集会では、薬害被害者の方、とりわけ子宮頸がんワクチン副反応で苦しんでいる方々がお話されました。

 

 バスケットを頑張っていた。12歳で一回目のワクチンを受けた。
 注射をして熱が出たり筋肉痛があったりしたが、部活には通った。腕が上がらないことや足の痛みや脱力を部活のし過ぎかと思っていた。親には言えずに這って2階の自室に上がった。でも、症状を隠し様にないほど動けなくなった。今では食事もトイレも何もかも介助してもらわないとできない。
 でも、いつか良くなって、バスケットをしたい。思い切り全力疾走したい。行けなかった修学旅行も仲の良い友達と行きたい。アルバイトもしたい。就職して働きたい。
 12歳の時にオトナに勧められてワクチンを受けて、今歩けないまま、車椅子の上で姿勢も保てないまま17歳になった。オトナは私を元の体に戻してほしい。
(車いすの17歳の原告女性)

 

 まず自分に起こっている痛みを理解するのが大変でした。次に親に私の痛みをわかってもらうのに苦労しました。そして周りの人にはもっとなかなか分かってもらえませんでした。朝から晩まで激痛と闘うかぼんやりしているか、という日々が続きました。
 …病院を何件も回り、二十回以上入院して治療を受けて、今こうしてしゃべっています。進学は断念して歩いて行ける近所のパン屋でアルバイトをしていますが、調子がすごく良くて一日5時間くらい、週4日くらいしか働けません。
 裁判では絶対に、絶対に勝利したいと思います。
(原告:山田さん18歳)

 

その他、スモンの被害者の方も「お菓子を食べるように、この薬は飲んだらよい」と言われていたが、ある日突然歩けなくなり目も見えなくなった、治療や訓練で歩けるようになったが視力は回復しなかったと訴え、薬害が人の一生を大きく変えてしまうものだと胸に突き刺さるようでした。
また薬害全般についての学習講演、大学生を中心とした根絶デー実行委員会から「過去の薬害と被害救済制度」と題して、薬害に対する被害者を中心とした闘いが薬事関連法の整備、被害者救済制度の創設につながっていったことが紹介されました。
あとで民医連も薬害を生む医薬品を投与してきたこと、今の薬害はイレッサ・子宮頸がんワクチンのように薬害が出てからも当該の医薬品等が使用され続けていることが特徴であること、薬害根絶運動にかかわって取り組んでいるのは医療団体は少ないことが紹介されました。

 

 

翌日午前中は民医連での学習会でした(薬害オンブズパースン会議副代表、NPO法人健康と病の語りディペックス・ジャパン理事長 別府宏圀医師による講演)。

全国から民医連の仲間が集まって薬害と、子宮頸がんワクチンの特殊性、副反応の調査などをめぐる状況などを学習しました。
子宮頸がんワクチン接種については、まだ様々な見解があり、「薬害」も「副反応被害」も否定している専門家も少なくないようです。しかし、権威ある機関の発表した見解やデータでも、どのような調査対象か、データの「加工」がどのようになされているか、それが適切妥当であるか、当該研究者の製薬会社との利害関係はどうかなど、丁寧に見ていく必要がある、ということが説かれました。

 

 

学習会の後、厚労省前でリレートークがあり、さまざまな薬害被害者・支援者の発言がありました。薬害肝炎被害者の方が「自分たちが最後の薬害被害者でありたかった。子宮頸がんワクチンの被害を食い止める防波堤になることができず、若い人たちに大変な迷惑をかけてしまったことをお詫びしたい」旨の発言をされ、胸を突きました。
厚労省内にて要望書を手渡して、薬害根絶デーの行動を終了しました。

誓いの碑

 

 

厚労省前リレートーク(民医連の人がマイクを持っています)