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事務局日誌

2023年1月20日

知らなかった「シモダ・ケース」(下田訴訟、原爆訴訟)

本部のWです。
『民医連医療』2023年1月号の「連載 ビキニ核実験で被ばくしたすべての船員に補償を 最終回 核実験による被ばくは未来の問題でもある」聞間 元(静岡 生協きたはま診療所 所長)を読んで、初めて知ったことがありました。
ひとつは

   非人道的な軍事科学には人間やそのコミュニティ、環境への影響に関する研究がそもそも存在していない。何の罪もない核の被害者は加害者によって放置される運命に最初からあったのである。核実験場にされたマーシャル諸島の被ばく島民たちも実験動物のように扱われていた歴史がある。
この実態をマーシャル諸島や米国立公文書館での調査で明らかにしたのが竹峰誠一郎(現明星大学教授)、高橋博子(現奈良大学教授)らのグローバルヒバクシャ研究会の研究者である。詳細は『隠されたヒバクシャ―検証=裁きなきビキニ水爆被災』(凱風社)を参照。

 

 

もうひとつは

   1955年 4 月に 5 人の原爆被爆者が東京地裁と大阪地裁に提訴した事件(原告代表の下田隆一の名をとって下田訴訟といわれる)。提訴の理由は、原爆投下が国際法違反であり、原爆の被害を与えた米国に対する原告の損害賠償請求権が国によってサンフランシスコ講和条約により放棄されたので、憲法29条 3 項(私有財産の正当な補償)により補償されるべきであるという主張であった。判決では原告個人の損害賠償請求は認めなかったものの、原爆投下が国際法違反であることを認めた最初の公権的判決として有名である〔シモダ・ケースと呼ばれる〕。その後1996年の国際司法裁判所における勧告的意見において、核兵器の使用または威嚇は一般的に国際法に違反するとの判断がなされたが、この判決はその先例的意味を持つとされる。

 

後者については恥ずかしながら全く知りませんでした。
 

 

原爆訴訟の判決

下田訴訟は、「下田事件」「原爆訴訟」などとも呼ばれているようです。
PDFで138ページに及ぶ判決文が「反核法律家協会」のサイトに掲載されています。(こちら
 

 

「原爆訴訟」の歴史

中国新聞が「ヒロシマ平和メディアセンター」というサイトで、原爆と平和についての記事を蓄積公表しています。それに敬意をはらいつつ、「原爆訴訟」について拾ってみます。

1954/1/8
米政府などを相手取り原爆訴訟を起こす「原爆損害求償同盟発起人総会」が東京・学士会館で開く。発起人代表、日本弁護士連合会理事岡本尚一弁護士、日本自由人権協会理事長海野晋吉弁護士、作家の大田洋子、国際友和会日本支部書記長関屋正彦氏ら平和運動関係者10人が出席。死者1人当たり100万円、負傷者は障害程度に準ずる金銭代償を求める。岡本弁護士「原爆は必然的に人民を殺傷しようとする凶器で、これを投下したことは無意志の人民を殴殺したものと考える。アメリカの良心的な裁判官もわれわれの訴えには賛意するものと確信している」。大田洋子氏「原爆使用というアメリカの過去の罪は罪としてあくまで追及するべきです。一方がこうした訴えをすることで将来人類の歴史から戦争を放棄するべく世界の各国民によびかけるのは当たり前のことでしょう」
1954/3/–
原爆損害求償同盟から協力を求められていたニューヨークの国際人権連盟議長ロジャー・ボールドウィン氏が断りの手紙。「原爆賠償の訴訟が成立するなら焼夷弾による被害者も賠償請求できる。原爆訴訟は法律的に根拠がなく、日米関係にも有害」
1955/4/25
広島の被爆者、広島市中広町の下田隆一さん、同市皆実町の多田マキさん、長崎の被爆者、東京・新宿区の浜部寿次さんが国を相手取って損害賠償請求の訴訟を東京地裁に起こす(原爆訴訟)。下田さん=30万円。多田さん、浜部さん=20万円。「政府は米国と平和条約を締結した際、戦争によって生じた一切の損害賠償請求権を放棄した。従って国は個人の受けた損害を賠償すべき」。代理人は原水爆損害求償・使用禁止同盟理事長の岡本尚一弁護士
1955/4/27
大阪でも原爆訴訟。兵庫県宝塚市の岩淵文治さんと大阪府寝屋川市の川島登智子さん。「原爆被災によって受けた損害に対し各20万円を支払え」と国を相手どって大阪地裁に提訴。代理人は東京と同じ岡本尚一弁護士
1955/7/16
東京地裁で原爆訴訟の第2回準備手続き。被告の国側は請求棄却を求める
1958/4/5
原爆訴訟の岡本尚一弁護士が病没。67歳。和歌山県生まれ。戦後の極東国際軍事裁判で元陸軍省軍務局長の弁護を引き受け、この間、連合国側が原爆投下に対して何らの反省も示さなかったことから原爆訴訟の提訴を決意した。アララギ派歌人でもある。歌集に原爆の悲惨を歌った「人類」がある(「広島県大百科事典」)
1960/2/8
1955年に広島の被爆者らが提訴していた「原爆訴訟」の第1回口頭弁論が東京地裁で5年ぶりに開かれる。「原爆投下は国際法違反かどうか」をめぐり、原告側は法政大教授、日本原水協理事長の安井郁氏、被告の国側は東大教授の横田喜三郎氏に鑑定を依頼へ。国側主張「原爆投下が戦争を早く終わらせ、より多数の人命殺傷を防ぐために用いられたのなら、国際法違反とは言えない」
1963/1/29
故岡本尚一弁護士が中心になった「原爆訴訟」が1年2カ月ぶりに弁論を再開。田畑茂二郎京大教授、高野雄一東大名誉教授、安井郁法政大教授の鑑定が出そろう。3教授とも「無差別の原爆投下は国際法違反」
1963/12/7
広島、長崎の原爆被害者5人が国を相手取って訴えていた「原爆訴訟」で、東京地裁の古関敏正裁判長が8年ぶりに判決。「原子爆弾の投下は無防備都市に対する無差別爆撃で国際法上違法である。しかし、損害賠償請求権は国際法上も国内法上も個人にない」。判決は被爆者の救済にも触れ「原爆犠牲者には深く同情する。できれば戦争による災害を少なくし十分な救援策を講じたい。しかし、これは当裁判所の職責ではない」▽鑑定は高野雄一東大教授、安井郁法政大教授、田畑茂二郎京大教授が当たる。3教授は「原爆投下は国際法に違反している」で一致したが、米の損害賠償責任、被爆者の賠償請求権、平和条約の請求権放棄などについては安井教授が「原爆投下は違法な戦争行為だから米に賠償責任がある。国は個人の財産権を放棄できないから被爆者に請求権がある」。高野教授「米が責任を負うべきであるが、国際法上の主体は個人でなく国家であるため、賠償請求権は日本国家で国民にはない。したがって被爆者に請求権はない」。田畑教授「戦争行為からの損害賠償について国は免責される。請求権はもともとないのだから放棄のしようがない」▽訴訟は1955年4月25日、27日に広島市の下田隆一さん、宝塚市の岩淵文治さんら5人が東京地裁と大阪地裁に起こした。訴訟弁護人は大阪弁護士会の岡本尚一氏。8年の間に岡本弁護士、岩淵文治さんは死亡、訴訟は三原市出身の松井康浩弁護士が引き継いだ
1963/12/26
「原爆訴訟」の原告広島市の下田隆一さんら4人が控訴を断念。判決は27日確定

 

 

判決の最後には次のように書かれています。
 

   人類の歴史始って以来の大規模、かつ強力な破壊力をもつ原子爆弾の投下によって損害を被った国民に対して、心から同情の念を抱かない者はないであろう。戦争を全く廃止するか少なくとも最小限に制限し、それによる惨禍を最小限にとどめることは、人類共通の希望であり、そのためにわれわれ人類は日夜努力を重ねているのである。
けれども、不幸にして戦争が発生した場合には、いずれの国もなるべく被害を少なくし、その国民を保護する必要があることはいうまでもない。このように考えてくれば、戦争災害に対しては当然に結果責任に基く国家補償の問題が生ずるであろう。現に本件に関係するものとしては「原子爆弾被害者の医療等に関する法律」があるが、この程度のものでは、とうてい原子爆弾による被害者に対する救済、救援にならないことは、明らかである。国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、障害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかもその被害の甚大なことは、とうてい一般災害の比ではない。被告〔国〕がこれに鑑み、十分な救済策を執るべきことは、多言を要しないであろう。
しかしながら、それはもはや裁判所の職責ではなくて、立法府である国会及び行政府である内閣において果たさなければならない職責である。しかも、そういう手続きによってこそ、訴訟当事者だけでなく、原爆被害者全般に対する救済策を講ずることができるのであって、そこに立法及び立法に基く行政の存在理由がある。戦後十数年を経て、高度の経済成長をとげたわが国において、国家財政上これが不可能であるとはとうてい考えられない。われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられないのである。

 

 

「原爆訴訟」は下田さんの裁判だけではありません。たくさんの裁判実践、法実践をいまも続けています。政治を良くすることも課題です。