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事務局日誌

2019年6月21日

医療労働考

本部のYです。久しぶりに芝田進午『医療労働の理論』(1977年)を読み返しています。1977年の本といえば、もう「古書」の世界なのでしょうか。はじめの方を少し要約・アレンジして紹介しましょう。

 

人間にとってもっとも大切なものは生命である。だれでも、たった一つしか生命をもたず、このたった一度しか享受しえない人生を有意義に生きる権利をもつ。この「生きる権利」が保障されてこそ、人間は、他のいろいろの基本的人権を行使できるのであり、また、この「生きる権利」が保障されないでは、他のすべての権利は無に帰するほかはない。ところが、この生きる権利の保障という点で、人間は、生まれるときから死ぬときまで、ほぼ例外なく、医療の世話にならなければならない。
ところで古代、医療という活動は社会的分業の一つとしては存在していなかったはずだ。医療が分業として始まったのは古代エジプトであったであろうか。古代ギリシャでは医療はヒポクラテスの名前と結びついて職業的な種族かギルドによって担われていた。医療は支配層のためにだけ行われ、庶民の医療は下層になればなるほど魔術的な療法に委ねられていたであろう。

 

 

資本主義の発展に伴い、大工業の段階に入ると職場と生活の場でさまざまな健康破壊が発生した。初期資本主義社会での労働者の平均寿命は、短いものであった。産業・科学の発展、戦争などを通じて医学と医療の跳躍的な発展があったと考えられる。

 

医療労働は「健康権」を保障するためのサービスであるが、それは、もはや健康回復の可能性がない場合でも、すべての人が最後まで人間の尊厳にふさわしく、人間的に生命をまっとうできるよう、最大限の可能性をつくして看護し、治療するサービスである。それゆえ医療労働は、本質的に倫理的性格を持つ。

 

そしてまた、それゆえ医療は私的ではなく公的な性格を持つのであるが、同時にそれゆえ産業や国家からは国民のための医療費は「空費」として認識される。

 

医療・社会保障を充実させるのか否か、そして社会保障の費用を保険料や消費税のように、労働者の賃金や市民の生活費をその原資とするのか産業社会の諸個人の力能を超えた生産力から拠出させるのか、ということが争点になる。その争点は一人ひとりの人間の命・暮らしの大切さを、国や社会に高めさせるのか・それが引き下げられてしまうのかというせめぎ合いであるはずであるが、「社会保険」と「消費税」という制度はそのことを「資格問題」と「相互扶助」問題、場合によっては「国籍」問題に矮小化し、今日「払える者だけが享受する権利がある」という差別主義的な自己責任・受益者負担原則に変質した形で認識させる強力な作用をあらわしている。
医療・社会保障は「助け合い」などではないことを再確認すべきである。

今日の医療労働者の歴史的な使命も、社会保障の歴史を学べば自ずと明らかではなかろうか。