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事務局日誌

2022年7月23日

沖縄復帰50年—「うつろな目の少女」

 本部のWです。
 今年は沖縄の復帰50年ですので、少しずつ沖縄に関する本や資料を読んでいます。

 

 

「うつろな目の少女」


 皆さんはこの少女の写真をご覧になったことがあるでしょうか。この写真は沖縄公文書館所蔵(クリックすると、公文書館の写真のページが開きます)で、インターネットで自由に閲覧・引用することができます。
 この写真の説明として、
 

【原文】 A young Okinawan girl waits to receive medical treatment. The military government’s doctors are treating a number of such cases at Gushikhan.
【和訳】 傷の手当を待つ少女。具志頭では軍医によるこのような治療が多く行われた。
 

とあります。
 

 おかっぱで右腕を吊り、はだしで(泥と血で)よごれたボロボロの衣服をまとい、うつろな目を投げかけています。きっと「鉄の暴風」の中を生き延びた女の子なのでしょう。この写真は「うつろな目の少女」という名で知られています。
 

 

男の子だった「うつろな目の少女」

 わたくしはこの写真を『沖縄戦を生きた子どもたち』(大田昌秀著、クリエイティブ21、2007年)という本で知りました。
 ところで後年、この少女の写真を見て、この写真の少女は自分であると名乗り出た人がありました。その人は驚くことに、大城盛俊という男性でした。以下は『沖縄戦を生きた子どもたち』の記事の紹介ですが、簡単に記してみたいと思います。
 

 

 大城少年が12歳の頃、日本軍はアメリカとの戦争に備えて、大城少年の村でも陣地づくりなどの準備を始めていました。子どもたちも学校どころではなく、大城少年も陣地づくりに動員されてもっこを担ぐ毎日だったそうです。
 そのような中、大城少年の養父(大城少年は養子でした)は言いました「日本兵はお前に何をするかわからん。それお前が男だからだ。お前は大切な後継ぎだから、何かあっては困る。髪を伸ばして女の子の格好をしなさい」。少年ははじめは大変いやがりました。学校ではバカにされてイジメられるだろうし、第一恥ずかしくて外も歩けません。ところが、いつもは優しい養父がかつてなく厳しい態度を示して命じるので、しぶしぶ髪を伸ばして「おかっぱ」にしたのです。
 

 1945年4月1日に米軍が上陸し、戦況は厳しく・悪くなっていきました。とうとう大城少年と家族は自然にできた洞窟の壕に避難して暮らすことになりました。
 

 6月3日、6人の日本兵が壕に入り込んできて食料を要求しました。大城「少女」は「ありません」と答えましたが、兵隊の一人が少女のリュックサックを取り上げようとしました。少女はリュックサックにしがみついて「これは私たちの食べ物です」と言いました。すると他の兵隊が「生意気な!軍隊に逆らうのか」と少女を壕の外に引きずり出し、殴る蹴るの暴行を加えたのです。少女はやがて気を失ってしまい、次に気づいたときには養父の腕の中でした。
 

 「暴虐な日本兵といえども、まさか女の子には乱暴なことはすまい」、という養父の願いは、その通りには行かなかったのです。
 「少女」の右肩は脱臼し、腕が上がらなかったので養母が吊ってくれました。顔と足には打撲傷、右目は腫れ上がり、かすんで、その後も視力は戻りませんでした。後頭部は軍靴で踏みつけられ、大きな裂傷がありました。薬もないので、両親は薬草をしぼっては手当を続けたそうです。
 

 やがて家族は米軍に捕らえられ、収容所に送られました。話を聞いた米兵が写真を撮ったのだそうです。
 また、痛ましいことに、大城少年の本当の母親は、沖縄戦のさなか「アメリカのスパイ」として森の中で日本兵によって殺害されていたとのことでした。
 

 

沖縄に帰って来て「がっかり」

 その後成人した大城氏は大阪で暮らしましたが、20数年たって沖縄に帰って暮らすことにしたそうです。ところが、沖縄は思っていた姿とは大きく違っていました。遺骨はあちこちにそのままで、不発弾もたくさん見つかっていました。何より「諸悪の根源」の軍事基地は、沖縄の日本復帰で少なくなるどころか、かえって強化され拡大されていました。本当にがっかりしてしまったそうです。
 

 

 
 憲法改正が声高に叫ばれていますが、沖縄本土復帰50年—琉球政府(沖縄)「復帰措置に関する建議書」についてと併せ、今大事なのは、憲法を変えることではなく、守り実現することなのだと強く思います。