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事務局日誌

2022年10月10日

原爆の子の像と原爆ドームと…偉人 河本一郎氏のこと

  本部のYです。

  佐々木禎子さん(享年12歳)と楮山(かじやま)ヒロ子さん(享年16歳)、そして岩本儀江さん(享年9歳)。いずれも原爆による白血病で急死した子どもたちでした。この悲しみと怒りを「原爆の子の像」の建立と「原爆ドーム」の保存に子どもたちによる平和活動によって結びつけた人物がいました。河本一郎さんという人です。この平和を願い核兵器廃絶を願う歴史的な二つのモニュメントの建立・保存はどちらも子どもたちの運動がきっかけでした。

  以下は長い記事ですが、とくに楮山さんと河本さんについて知っていただきたく思って書きました。なお、この記事内容の多くは自費出版『原爆ドームと楮山ヒロ子』に負っています。この記事の最後をご覧ください。
 

          
   目次

  • ■ 「原爆の子の像」と佐々木禎子さん
    • ・佐々木禎子さんと折り鶴
    • ・原爆の子の像
  • ■ 原爆ドーム
    • ・楮山ヒロ子さん
  • ■ 被爆の後障害について
  • ■ 河本一郎氏(1929-2001)
    • ・原爆の子の像と河本一郎さん
    • ・原爆ドームと河本一郎さん
  • ■ ヒロシマの平和の黒子
  • ■ おわりに

    
        

 
 

「原爆の子の像」と佐々木禎子さん


 
佐々木禎子さんと折り鶴

  佐々木禎子さんは2歳の時に被爆し、外傷はなかったものの避難中に「黒い雨」に打たれました。しかしながら体の不調を訴えることもなく、元気に過ごしていました。

  ところが、11歳の11月から突然体調を崩し、12歳の1955年2月には入院、同年10月に亡くなりました。白血病でした。

  入院した年の8月に名古屋の淑徳高校の生徒から日赤を通じて見舞いの折り鶴が(広島の被爆者に)送られ、それをきっかけに禎子さんも他の患者も回復を祈って千羽鶴を折り始めたそうです。禎子さんは千羽以上の鶴を折りましたが、甲斐なく亡くなりました。
 
 
原爆の子の像

  佐々木禎子さんが亡くなってから、その死を知った男の子から同級生に慰霊碑をつくろうとの提案があり、中学校校長会に設置を訴え、カンパ活動が全国に・海外にまで広がり、像は1958年に完成しました。
  また、これらのことにちなんで、核兵器廃絶と平和とを願って折り鶴が折られ、原爆の日には広島や長崎に持ち寄っています。
 

  国連の核兵器禁止条約の会議に欠席した日本の席に、他の国の代表が折り鶴を置いたことも記憶に新しいところです。
 
 

原爆ドーム


 

  原爆ドームは誰もが知っている被爆遺跡ですが、はじめは保存に賛成する人ばかりではありませんでした。広島市のホームページの「原爆ドームについて」から編集・引用して紹介します。
 

             戦後、被爆した原爆ドームについては、保存の考えに賛成する人たちばかりではありませんでした。

原爆ドームが被爆の悲惨な思い出につながることから、取り壊しを望む声もあり、保存と取り壊しの方針が決まらないまま、長い間そのままの状態となっていました。…

  保存運動が本格化するきっかけと言われているのは1歳の時に被爆し、15年後白血病で亡くなった楮山(かじやま)ヒロ子さんが残した日記でした。

「あの痛々しい産業奨励館(原爆ドームのこと)だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世にうったえかけてくれるだろう・・・」

こう記されたヒロ子さんの日記に心を打たれた人々によって原爆ドーム保存への運動がはじめられました。

  保存を求める声が高まる中、…昭和41年(1966年)7月、広島市議会が原爆ドームの保存を要望する決議を行いました。…

 
 
楮山ヒロ子さん

  楮山(かじやま)さんの名前を初めて目にする方も少なくないかも知れません。楮山ヒロ子さん(1943年生まれ)は引用にあるように、1歳の時に被爆しましたが無傷で元気に過ごしていました。しかし15歳の時に体調を崩すようになり、やはり翌年、16歳で急性白血病で亡くなりました。
 

 

被爆の後障害について

  それにしても、被爆して無傷だった幼児が、少年少女へと成長するうちに突然命を奪われるというのは、本人や家族にとって、なんと大変な恐怖を背負った人生であったし、あり続けていることでしょう。広島市のホームページから引用します。
 

             原子爆弾による放射線は、被爆直後の急性障害(発熱、はきけ、下痢など)だけでなく、その後も長期にわたってさまざまな障害を引き起こし、被爆者の健康を現在もなお脅かし続けています。

  昭和21年(1946年)初めころから、火傷が治ったあとが盛り上がる、いわゆるケロイド症状が現れました。また、胎内被爆児は出生後も死亡率が高く、死を免れても小頭症などの症状が現れることもありました。

  被爆から年月を経て、白血病やがんによって亡くなる人が増えていきました。白血病発生の増加は、被爆して2年から3年後に始まり、7年から8年後に頂点に達しました。一方、がんが発生するまでの潜伏期は長く、被爆後5年から10年ごろに増加が始まったのではないかと考えられています。

  放射線が年月を経て引き起こす影響については、未だ十分に解明されておらず、調査や研究が現在も続けられています。

 
  佐々木禎子さん、楮山ヒロ子さんの同級生にも、白血病で亡くなった友達がいたのではないでしょうか。
 

  ちなみに、小島剛一氏『漂流するトルコ』(2010年、旅行人)の中の2003年の記述には次のようにあります。トルコ北部=黒海南岸の村で子どもたちが全員白血病で亡くなったという話です。放射線・放射性物質のあるところ子どもたちが最初に被害にあいます。

           「黒海の向こうのチェルノブイリの原発事故(1986年)の翌年にこの村で生まれた子供たちは、ここ一、二年の間に一人残らず白血病で死んじゃったんです」(『漂流するトルコ』331ページ)。

 

 

河本一郎氏(1929-2001)

  「原爆の子の像」「原爆ドーム」の建立・保存の運動のかげで、河本一郎さんという被爆者がこれを支えていたということは殆ど知られていません。(地元ではよく知られているのかも知れません。)

  2020年7月25日の中國新聞は、河本一郎さん遺影、広島祈念館に登録へ 原爆の子の像発案、ドーム保存貢献ものタイトルで次のように伝えています。
 

             河本さんは、白血病のため12歳で亡くなった佐々木禎子さんの死を悼み、級友たちに平和のシンボルとなる像の建立を呼び掛けた。募金運動を始め、1958年の完成を機に、会を結成した。

  また、16歳だった楮山(かじやま)ヒロ子さんが「あの痛々しい産業奨励館(原爆ドーム)だけが、いつまでも恐るべき原爆を世に訴えてくれるだろう」との趣旨の日記を残して白血病で亡くなった後、解体論議があったドームの保存運動に子どもたちと取り組んだ。2001年に72歳で亡くなるまで活動を続けた。

  河本さんは広島県坂町の発電所で働いていた16歳の時、入市被爆した。1952年に故吉川清さんたちと初期の被爆者組織「原爆被害者の会」を結成したことで知られる。

 

原爆の子の像と河本一郎さん

  以下は、『原爆ドームと楮山ヒロ子』(2019年、原爆ドームと楮山ひろ子の会自費出版)やそこに引用されている河口栄二氏「アンヘルの名とともに」(『梶山季之文学碑記念「梶葉」Ⅱ巻』に所収、1993年)の記述によります。
 

  河本さんは子どもたちが白血病で亡くなっていくのを新聞で見るにつけ、このことが世間ではどれほど知られているのか疑問に思っていました。そこで平和公園の中に子どもの像を立てたいと考えていました。また、1954年10月に9歳で亡くなった岩本儀江さん(キリスト教者の平和団体の知り合いの娘さん)の命日に、平和につながるような何かできないものか、と考えていました。

  1956年10月26日、中國新聞の「(今年)14人目(の犠牲者)禎子さん死亡」との記事を目にした河本さんは、岩本儀江さんをはじめ、今も原爆後遺症でなくなっている子どもたちの追悼集会に、佐々木禎子さんのご遺族も出席を依頼したのでした。

  その追悼集会で河本さんが「儀江ちゃんのようにいまも原爆は子どもたちを殺し続けています。この事実と原爆の恐ろしさを広く訴えて行く意味で、小さくてもいいから原爆の子の像を立てる運動をしませんか」と呼びかけました。すぐに禎子さんのご遺族も含めみんなの賛同を得て、運動は始まったのですが、河本さんは「大人の自分が表に立つべきではないし、このような運動はご遺族やクラスメイトが主体的に行動すべき」と考え、子どもたちの発案という形で進めることにしたのだそうです。

  その後、岩本儀江さんの学校が火災で全焼してクラスメイトも運動どころではなくなってしまい、河本さんは佐々木禎子さんの同級生に「あなたたちが中心になっていかなくては」という話をし、そういう事情で禎子さんをモデルにした運動になっていったとのことです。
 

           「原爆の子の像」建立の運動は河本の発案・企画・実行でそれに呼応する形で生徒たちが熱情を注ぎ込んで完成したものである。…「私のことは絶対に表に出さないで下さいよ、子供たち自身が言い出し、像を作った。それが大事なんです」。(『アンヘルの名とともに』より)

 

原爆ドームと河本一郎さん

  河本さんは、新聞に原爆後遺症で子どもがなくなるのが載るたびに(遺族の許諾を得て)ひとりで葬儀に参列をしていました。楮山ヒロ子さんの葬儀(1960年4月)に参列した際、母親から「ヒロ子の日記を読んでやって下さい」と手渡されました。河本さんは1959年8月9日の記述

「(おそるべき原爆は)20世紀以後はわすれられて、…あのいたいたしい産業奨れい館だけがいつまでもおそる(べき)原爆を後世にうったえてくれるだろうか」

に目を留めました。ヒロ子さんは原爆の悲劇を後世に伝えるために原爆ドームを保存してほしいと願いながら亡くなった、と河本さんは解釈しました。

  河本さんは翌月「原爆の子の像」除幕2周年の記念式にヒロ子さんの両親にも出席してもらい、彼女の日記を読む集いを開くことにしました。そして「このヒロ子さんの気持ちをなんとか叶えてあげられないかと思っています」と呼びかけ、原爆ドーム保存運動が始まりました。ところがその3ヶ月後には当時の広島市長がドーム取り壊しを発表したため、保存運動は一層熱を帯びました。

  原爆保存運動には中高生たちの「広島折鶴の会」の呼びかけが契機となったと言われていますが、その会の世話人は河本さん夫妻なのでした。
 

 

ヒロシマの平和の黒子

  河本一郎さんの略歴や人となりについては2013年3月の中國新聞の記事「検証 ヒロシマ 1945~95 ‹16› 原爆ドーム」に簡潔に紹介されています。

  移民の子としてペルーで生まれ、2歳で父をなくし、帰国して13歳で孤児となり、中学校にも行けなかった河本さんは、原爆投下の当時は、広島市に近い坂火力発電所の雑用係として働いていました(16歳)。原爆投下直後から救援活動に携わり、後には発電所をやめ、広島に出て日雇い労務者として働くことにしました(24歳)。被爆者と平和のための奉仕活動に専念するため3日働いて1日休めるという時間の自由のために日雇いの仕事を選んだとのことでした。(その後学校の用務員として雇用された)

  その後もずっと一貫して被爆者と平和のために静かに粘り強い活動を続けて行かれたとのことです。
河本さんを突き動かしたのは、自分が孤児として少年時代を寂しく過ごし、苦労した経験から、同じ寂しい思いを子どもたちに味あわせてはならないとの思いではなかったでしょうか。

「原爆の子の像」建立のためにビラ配りに参加した同級生たち。後列左端は像の建立を提案した河本一郎さん。(広島平和記念資料館のページより)
 

略年譜(ヒロシマ戦後史の中の広島女学院~河本一郎の足跡を中心に~ レジメより)

1929.1.1 ペルーのリマにて出生。1931. 父、リマにて他界。
1938.4 母と二人で広島県安芸郡坂村(現在坂町)に帰郷。母、大阪に出て他界。13 歳で孤児となる。
1943 春 春 大阪から坂村に帰る。坂火力発電所の雑役夫となる。
1945.8.6 以後、15 日間、広島市内の救援活動をする。二次放射能障害に悩む。
1947 広島東部教会にて「洗礼」を受ける。以後、坂村に子供会組織。紙芝居や幻灯をもって孤児院慰問。反核平和運動に出席。
1950 日本友和会広島支部FOR で活動。詩人峠三吉との出会い。
1952.6 「原爆被害者の会」結成に協力。1953 秋 坂発電所を退職。広島に出て日雇い労務につく。
1955.10.28 佐々木禎子(10.25 他界)追悼会と岩本儀江1 周忌を広島YMCA の一室で行なう。
1956.1 広島市内55 校の小・中・高校生が「広島平和をきずく児童・生徒の会」を組織。
1958.5.5 「原爆の子の像」除幕式。6.22 映画「千羽鶴」試写会。「広島折鶴の会」発足。世話人となる。
1960 「広島キリスト者平和の会」の一員として、韓国人被爆者への慰問・救援も開始。
1965 ソビエト・バイカル湖で開催の「第9 回世界青年学生友好会」に招待される。「広島折鶴の会」原爆ドーム保存の署名と募金開始。67.8.5 原爆ドーム補修完工式。
1967.4 広島女学院中学高等学校の用務員となる。
1968頃 「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」建立のために募金活動開始。70.8.5 碑の除幕式と慰霊祭。
1970.8 「広島折鶴の会」会員5 名とともに在韓被爆者と被爆二世との交流のために韓国訪問。
1972 夏 西ドイツのハイネマン大統領からミュンヘン・オリンピックに招待される。他の3 名とともに20 日間。
1980 日韓両政府合意による「渡日治療」開始(-86)。「広島折鶴の会」会員と慰問開始。1984 「在韓被爆者渡日治療被爆者委員会」による招請治療開始。会員とともに慰問開始。
1994.6 大韓民国の保健社会部長官賞受賞。
2001.6.7 広島赤十字病院において他界。享年72 歳。6.10 第13 回谷本清平和賞受賞。


 

 

おわりに

  楮山ヒロ子さんと河本一郎さんの詳細については自費出版『原爆ドームと楮山ヒロ子』に詳しく紹介されています。手に取りたい方は下記まで。
 

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