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2019年10月4日

原水爆禁止世界大会に参加して

花ぐるま薬局のTです。

8月7日から9日にかけて、長崎で原水爆禁止世界大会に参加させていただきました。
この大会は、原爆被害の悲惨さ、国際的な核兵器の現状等を学び、世界規模での核兵器禁止を呼びかける大会です。全国あるいは海外からも多数の方が参加されます。

大会を通じ、様々なことを学び、貴重な経験をすることができましたが、特に印象深かったのは2日目の「分科会9青年の広場」への参加した時の体験です。
この分科会は、被爆者の体験や戦いを継承し、原爆投下や被爆の実態を基礎から学んで交流するというのがテーマです。分科会9は、いくつかコースに分かれており、私は東本願寺訪問コースに参加させていただきました。

東本願寺を訪れると目に入ってくるのは「非核非戦」と書かれた碑です。「反核反戦」という言葉は一般的によく用いられると思いますが、「非核非戦」という言葉は聞いたことがありませんでした。住職のお話によると、「非」という文字は、もともと髪を整えるための櫛の形が元になっている漢字であり、本来は「否定する」という意味だけでなく「自らを正す」という意味も含まれているそうです。ただ反対するのではなく、原爆・戦争という悲劇を人類全体の愚かさとして受け止め、反省し、自らを正しくしていくという意味を込めて「非核非戦」という言葉を用いて、碑文としたと住職はおっしゃっていました。

 

 

 

 

 

ではこの碑には何が収められているのでしょうか?
それは原爆で亡くなられた方の身元不明の遺骨なのです。原爆投下の翌年、進駐軍が松山陸上競技場に飛行場を建設することになりました。松山陸上競技場には身元のわからない遺骨が大量に放置されており、その遺骨を回収しようと人々が立ち上がり、飛行場建設を延期させ、遺骨を収集したのです。最終的に、納められた遺骨は1万体以上にもなりました。

 

↑1万体以上の遺骨が箱に入れられ、収められている。

そして、その遺骨の一部を私は実際に見せていただきました。
その時の私の思いは、言葉にすることは難しいです。今までも資料などで、長崎への原爆でおよそ7万4千人が亡くなられたという事実を読み、その悲惨さについては理解しているつもりでした。しかし、いざ遺骨を見てみると、どこかそれを遠い過去の出来事として考えていた自分に気が付きました。原爆で亡くなられた方一人ひとりに人生があり、その尊い命が原爆によって奪われたという現実を遺骨によってまざまざと見せつけられた思いでした。
遺骨を見せていただいた後は、原爆の爪痕が残る1945年の秋に長崎で生まれた住職のお話がありました。いくつかあったお話の中でも、住職のお母様の体験談は特に印象深いものでした。
お寺は、戦時中は避難所となっており、原爆投下直後もたくさんの負傷者が運び込まれました。怪我人が本堂に溢れ、薬もない状態でした。住職のお母様は、怪我人の傷口に湧くウジ虫を竹で作ったピンセットで取り除いてやろうとしましたが、ウジは無数に湧いてきて、とても追いつかなかったそうです。
また、ある時夜道を歩いていると、顔が2倍にも腫れ上がり、全身が爛れた子供に「水をください」と声を掛けられ、その姿に思わず恐怖してしまい、逃げてしまったことがあるそうです。住職のお母様は、そのことを一生後悔しているそうで、なんで水をあげなかったのだろうかといつも話していたそうです。
住職は原爆を直接体験したわけではありませんが、たくさんの被爆者の方の話を聞いて、それを伝えることを今までされてきた方です。「皆さんも今日私の話を聞いて、経験をしたわけです。どうかそれをほかの方にも話してください。被爆者の体験を自らの経験として受け止め、それを伝えていく。それを聞いた人はまたほかの人に話す。そうやって語り継ぐことがこうした悲劇を繰り返さないことにつながるわけです」という主旨のことを最後におっしゃいました。
また住職は、東本願寺に収められている遺骨についてこのように語ります。「遺骨は言葉を発しません。しかし、国籍も出身地も名前も年齢も性別も全くわからない人々が私達に尋ねてくださるのは『ともに生きよ』ということです。

私は今回の経験を通じて、核のない平和な世界に、国も民族も超えて「ともに生きる」ことのできる世界を目指して、自分のできることをしたいと思いましたし、まずは今回の経験を身近な人に伝えることから活動しようと思いました。そして、今後も機会があれば原水爆禁止世界大会に参加したいと思いました。