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事務局日誌

2019年8月1日

平和を守る意味を語り継ぐ

「祖母のうた」(東北・山形弁で)

ふたりのこどもをくににあげ
のこりしかぞくはなきぐらし
よそのわかしゅうみるにつけ
うづのわかしゅういまごろは
さいのかわらでこいしつみ

おもいだしてはしゃすんをながめ
なぜかしゃすんはものいわぬ
いわぬはずじゃよ
やいじゃもの

じゅうさんかしらで
ごにんのこどもおかれ
なきなきくらすは
なつのせみ

にほんのひのまる
なだてあかい
かえらぬ
おらがむすこの ちであかい

おれのうたなの
うただときくな
なくになかれず
うたでなく




ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。
川嶋みどり(日本赤十字看護大学 名誉教授)「耳傾けよう平和への伝言—いのちと暮らしの守り手として受け継ぎ、創造し、発展させるために—」(第14回全日本民医連看護介護活動研究交流集会 記念講演)『民医連医療』2019年1月号掲載の記事からの引用です。職場で読みました。
川嶋氏は、満州事変の年にソウルで生まれ、軍国少女として育ち、15歳のときソウルで終戦を迎えました。日本に帰り日赤女子専門学校に入学したそうです。入学した赤十字の寮には、戦地から戻った従軍看護婦たちが、戦地でどれだけつらい思いをしたかを話していました。川嶋氏はそれ以来、「赤十字は戦時救護よりも、戦争を防ぐために尽力すべきとの思いをずっと持ち続けています。“平和”あってこその人間の尊厳、いのち、暮らしだと思います」と書いています。
さて、初めの詩は、同記事の「平和を守る意味を語り継ぐ」という節に、別所智枝子(看護師・詩人)の著書『ことばのことばかり』で紹介されている「東北地方の無名の老女の口誦(こうしょう)詩」として紹介されていたものです。


実はインターネットで調べてみると次のようなブログ記事が見つかりました。
おや爺のブログ「八月の詩の旅:祖母のうた  木村迪夫(きむらみちお)」2013.8.5)

山形に、丸山薫賞、現代詩人賞、日本農民文学賞など数々の賞を受賞した・TPPと反原発を訴える農民詩人、木村迪夫(76歳)という方がいる。
今月の詩、「祖母のうた」は、木村さんの祖母が自分で作って、蚕飼い(絹を作るための蚕を飼うこと)の仕事をするときに歌っていたのを、彼が書きとったものだ。
詩人の鈴木志郎康によると、「この祖母は二人の息子(つまり木村さんの父と叔父)を中国で戦死させてしまった。戦死の知らせを受けた祖母は、三日三晩泣き続け、その後ぴたりと泣くのをやめて、この詩を作って歌って」農作業をしていたという。わたしには、彼女の自作の念仏のように思える。
「戦前の農村のひとだから字も書くことも読むこともできなかった。戦争に夫や息子を送り出した家族は働き手を失って、貧乏のどん底に突き落とされたうえ、肉親を戦死させられたのだ。」それ以後、「天子さまのいたずらじゃ/むごいあそびじゃ」と、一切、神棚に手を合わわせることはなかった。

蛇足を承知で、漢字に置き換えたものを上げておきます。

二人の子どもを 国にあげ
残りし家族は 泣きぐらし
よその若衆 見るにつけ
うちの若衆 今頃は
賽の河原で 小石積み

想いだしては 写真を眺め
なぜか写真は もの言わぬ
言わぬはずじゃよ 焼いじゃもの(焼き付けたもの)

十三 頭で 五人の子どもおかれ
泣き泣き暮らすは 夏の蝉
日本の日の丸 なだて(何故)赤い
帰らぬ おらが息子の 血で赤い

おれの唄なの  唄だと聴くな
泣くに泣かれず 唄で泣く






『ペリリュー 楽園のゲルニカ』(白泉社)より